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kyrmami

Author:kyrmami
kyrmamiこと、ながいまみです。
2009年念願のアイスランド生活をスタート!
国立大学でのアイスランド語学習3年経て、遂に就職。
永住権取得で、これからもアイスランドに貢献できるよう、日々精進してまいります。

直接のご連絡は上の"切手"からメールでお願いします。

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   考え方の違い

2015.07.05 02:43|日記, diary
早いもので一年も半年が過ぎ、既に7月になってしまいましたが気分的にはもう9月くらいの勢いです。
日本に帰っていないからか、それともこの涼しい気候のせいか(笑)

お久し振りです、牛です。

今日は少々センシティブな話題になります。そのような話がお好きでない方は、今回のエントリーは読み飛ばしていただけると幸いです。

あまり議論を巻き起こすようなことは書かないように、と言ってきましたが、アイスランドで生活をしていると日本にいるときに比べて、日本で『タブー』とされるような色々なトピックが伴侶や友達の間で話題に上るようになり、自分の意見を述べて、議論をする機会が増えたように思います。
政治、宗教、性、お金。
アイスランドでも勿論越えてはいけない線、言及すべきでない部分はありますが、基本的に日本で敬遠されがちな4つの話題も、よくよく考えれば人が人として生活していく上で欠かせない、そしてその人との関係性が深くなるほど重要になってくるポイントであるような気がします。

私自身は日本で生まれ育ち、両親もそのまた両親も日本人として生まれ育ってきた家庭なので、ある意味では純・日本人と言えるかもしれません。
ある意味では、と私が言う理由は、何をもってしてその人が『自分は〇〇人だ、あの人は〇〇人だ』というのかは人それぞれなのだということを、日本にいるときから、そしてこちらに住むようになってからはもっと、
「自分が『〇〇人』と言うのには、自分の価値観しか反映されていない」と思うようになったからです。

自分の価値観では 『両親が日本人として生まれ育った人から生まれた子供』 が日本人だと思っています。
それ以外は、時と場合によりますが、基本的に日本人とはあまり考えないような気がします。
例えば私がもし現在の伴侶ぐんさまとの間に子供を持った場合、私自身は自分の子供のことを『半分日本人、半分アイスランド人』だと考えます。
生まれる場所、育つ場所は私にとって『〇〇人』と認識する材料にはあまりなりません。
しかし、国籍というのが自分の認識に影響していることも事実です。
例えば日本で複数の国籍所持は一部の未成年を除いて基本的に認められていないと認識していますが、アイスランドにいる、アイスランドの国籍と別の国籍を持っている人たちは、ナニジンなのだろう?と考えることがあります。
元難民で帰化した人たち、その子供、孫などはナニジンと呼べばいいのだろうか、そもそも本人たちはどう考えているのだろうか、と考えます。
実は外国人に日本語を教える時
『私は〇〇人です。』
というフレーズが導入されることがあります。
『どこから来ましたか。 - 〇〇から来ました。』 は、その人が住んでいた国を言えばいいので、そんなに難しくはない気がしますが、
『お国はどこですか。』との質問に国の名前や、〇〇人です、と答える場合、彼らはどう考えるのかな、と思うことが多くあります。
授業に政治的な話題を入れると話が大変ややこしくなるので実際には絶対にそんなことは口にも出さないし、教師としても、オフモードの自分としても
『本人が言うことを尊重すれば良い』
と思っているので授業中には学生たちが答える〇〇人は、全てその通りにし、そのように認識します。
ただアイスランドで、一目見ただけではその人がアイスランドの国籍だけを持っているのかそうでないのかということは分かりませんので、例えばルーツが中国にある人を見れば、『あの人は中国人かな?』と思うし、タイにある人を見れば『タイ人かな?』と思うし、やはり感覚なんて人それぞれだし、どれが合っていてどれが間違っているかなんてことも、それこそその人の価値観で認識したものでしかないじゃないか、と思います。

ということで世の中に、絶対的に『正解』である事なんて言うのはほんの一握りなのだと、実感することが多くあります。

なのでこれから下につらつら書いていくことも、何が正解、間違いということではなくて、それは私の認識や意見であって、誰かを否定したいという気持ちは全くありません。そして、ここで議論する気も一切ありません。
一人のニホンジンである私がアイスランドで生活しているうちにそういう事象に出会って、こういう風に考えたのだ、という本当に自分の日記的な、“報告”であり“記録”であると、ご理解、ご了承戴けると幸いです。

さて、世の中には本当にいろんな考え方の人がいるのだなあ、と思ったことの一つにようやく話を進めたいと思います。
少し前になりますが先日からアイスランドでは『女性の権利』や『立場』について声を上げる人や機会が増えてきています。
いわゆるフェミニズムというものなのだと思います。
例えば『男性は良いのに、どうして女性は乳首を見せるべきでない、乳首を見せると性的だと言われるのか。女性だって性的にいやらしいと感じられずに乳首を出せるようになるべきじゃないのか。』という意見の元、“乳首の自由”が叫ばれています。
この活動の一環で学校や職場にブラジャーを着けずに行く、や、女性が上半身裸で街中でデモ行進する、というアクションが取られるようになりました。
その後すぐ、アイスランド人の大好きなFacebook上で、
sexual_violence-fb_icon.jpg
のどちらか、もしくは半々の二色のアイコンをプロフィール写真に使う、という現象が流行しました。
これは、レイプや何らかの性的な嫌がらせの行為を受けたことがある、もしくはそうなった人が身近にいる、ということを周知させるための行動でした。 (ちゃんと覚えていませんが、黄色が実際に受けた人、オレンジが身近にそういう人がいる人だったと思います。)
個人的には『これをアイコンにして、他人に自分や他の人の被害を知らしめることで何の意味があるんだろう、別に犯人が捕まるわけでもないし責められるわけでも無いし、自分の心の傷が癒えるわけでも無いだろうに。』と思いましたが、アイスランド人、特に女性においてはそうではなかったようで、数日間ではありましたが大いに流行した行為でした。
それに端を発してなのか、その後、私が最も理解不能だった出来事が起こります。

私がそれを目にしたのは、アイスランド人の知り合いが『良くやったと思う。』といった旨のコメントを一言つけて、ある男性のポストをシェアしていたからでした。
ん?と思い元のポストを見て、更に疑問は深まりました。
ちなみにその男性のことは全く知らないし、共通の友人もいなさそうです。

あるアイスランド人の男性(少なくとも名前はアイスランド人の名前で、書いている言語もアイスランド語でした。プロフィールの写真もそれが本人であればアイスランド人らしい感じだったので、アイスランド人だと思います。)が、

『僕は性犯罪の加害者だ。でも、捕まらなかったし、罪を償ったわけでもない。
自分が18歳の時、ある友人のパーティに行った。酔っ払って疲れたので他の友人たちとベッドで寝転がっていた時、隣に寝ていた見知らぬ女の子に急に欲情してしまって、周りに友達もいたけれど、彼女も起きていたのに逃げなかったからいいやと思って同意を得ないまま犯してしまった。
犯した後は興味がなくなって、そのまま寝た。女の子は酷く怯えていた。
もう今は名前も分からないし謝罪もできないけど、今ここで謝りたいと思う。
ずっと悪いことをしたと思っていたのに謝れなかった。ごめんなさい。』

という内容の文章を自分のFacebookのページにポストしていました。

まず私がそれを見て思ったのは
本当に謝る気があるなら、こんなfacebookの呟きを書くようなところで謝罪している場合じゃないだろう。探し出して目の前でちゃんと謝れ。
というのと、
なぜここで急にこんなことを書かなければいけなかったのか?
ということでした。

しかし、その『懺悔ポスト』につく1000以上の "like (いいね)"と、 『あなたのことは知らないけれど…』などと始まりつつも、基本的にシンプルな
『良くやった!』、『素晴らしい!』、『男らしい!』、『勇敢だ!』といった50を超える賞賛のコメントでした。

良くやった、勇敢だ、などの褒め言葉が、彼の懺悔に対するものなのだろう、という想像はつきます。
しかし、それを明記している人は殆どいませんでした。
所詮SNSの呟きなので、わざわざ文章を気にして書く人のほうが少ないのだろうと思いますが、それなのにと言うかだからと言うか、Facebookなんてところで謝罪になると思っているこの男の人に対して私は、いい気持ちがしませんでした。
しかも、この狭いアイスランドという国。男性のポストを被害者の女性が目にする機会は十分にありうると思います。
それを見て彼女がどう思うか、この男性は考えたのか?と思いました。

彼女はこれで謝罪されたと思うだろうか?彼女はこの出来事を忘れたいと思っていたんじゃないだろうか?それともまだ心に傷を抱えているんじゃないんだろうか?それなのに、この男性の告白につく“賞賛”に、彼女はどんな思いをするだろうか?この男性は本当に自分の罪を悪いと思っているんだろうか?謝罪したいのならば、どうしてこんなところで誰もが見られるインターネットで突然告白したりしたんだろうか?犯したいから犯した、謝りたいから謝った、彼が今何歳かは知らないが、自分がやりたいからやりたいと思ったときに行動に移すなんて、しかも(載せてもいいなんて)同意も得ないで突然一方的に書くなんて、彼が意味したいのであろう“若いときの愚かな過ち”をやった時と、今の彼の考え方に成長なんて何も見えないじゃないか。
と思いました。

写真を見る限りでは、彼には今子供が二人いるようでした。奥さんか、彼女かは分かりませんが、パートナーも居そうです。それならば、パートナーや子供のことも考えたのか、とも思いました。
反応していたのはアイスランド人だけではありませんでしたが、ポストをしていた言語がアイスランド語であったので、外国人でもアイスランドに住んでいるか、少なくともアイスランド語が理解できる外国人がコメントをしていました。50全てのコメントを読んだわけではありませんが、目を通した30ほどもしくはそれ以上のコメントは全てポジティブだったので、パートナーと子供が白い目で見られるという心配もなさそうです。むしろ、勇敢なお父さんね、勇敢なパートナーね、と友人たちからは称えられるかもしれません。

しかし、です。
私はそもそも、彼の“過去の愚かな過ちに対するFacebook上での(私にとってはそうにしか見えない)自己中心的な謝罪”が、そんなに賞賛される素晴らしい行為なのか?という疑問しか持てないのです。
罪を犯したことは変えられないし、それを悪いと認めて謝罪するのはいいと思います。
でも、そんなところで謝ったところで罪は償えないし、そもそも償うつもりなんてないんじゃないのか、だからこそ、facebookでしか謝らないんじゃないのか、と思えてしまったのです。
被害を受けた女性の気持ちなんて、彼が彼女を犯したときも、彼がfacebookで謝罪した時も、気にしているようなフリをして、結局気にしていないのだと感じられてしまうのです。

懺悔、後悔=素晴らしい事

言葉の足りない賞賛の声にも、被害者の気持ちを考えていない謝罪にも、私は好感は持てませんでした。
ただ、
『ああ、アイスランドでこういう行為は勇気ある、褒め称えられる価値のある行動なんだな。どうやらアイスランド人と私は考え方が違うのだな。』
と驚きました。
納得はできないですが、そういう考え方なのだと、理解はできました。
アイスランド人が全員そういう考え方ではないと思います。でも、そういう傾向が強そうだ、と発見できたのは、大きなことでした。

この件で友人たちと話した時、
「『罪を憎んで人を憎まず』という考え方なんじゃないだろうか」と教えてもらいました。
この言葉を聞いて、強く納得したことがもう一つあります。
これはどうやらアイスランドだけではないようなのですが、とにかくアイスランドでは、刑務所がとても『恵まれて』います。
牢獄というには程遠い、清潔で快適な個室が多く、テレビ、ベッド、ソファ、パソコンなど、日本の刑務所のイメージとはかけ離れた“素晴らしい環境”なのです。

私は罪も憎むし、その罪を犯した人も憎むので、『何故罪を犯して償う立場に居る人がこんな恵まれた環境で生活できるのだ?』と強く疑問に感じました。
しかし、友人のその一言によって
『ああ、この人たちは人を罰するのではなくて、罪を罰するから、犯罪者の生活環境が良くても、それが普通なんだ。』と彼らの受ける待遇の良さに納得がいきました。

ですから、『後悔をし、懺悔をし、許しを乞えば、それで彼の犯した罪は容赦され、告白した行為が勇敢だと称えられるのだな』という、“賞賛の理由”も、腑に落ちました。
私とは考え方が全然違うけれど、そういう考えをする人が多い国で私は生活をしているのだ、と知ることができたのは、私にとって大きな意味のあることでした。

もう一つ、これは特に重い話題ではないのですが、『そういう考え方もあるのだな』と思ったことの一つです。
ジャイアンが言ったらしい『俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの。』は、実はとってもいい話なのだということを聞きましたが、アイスランド人は
『俺のものは俺のもの、でも俺のものは皆のもの』
という考え方をする人が居るようです。
主に身近なところで言えば伴侶様家族なのですが
例えばある人が所有しているものがあって、今は要らないからと倉庫に保管してあるものを、家族のうちの誰かが使いたいと言い出した場合、何らかの理由があって貸したくないと言うと、貸して欲しいといった本人やその周りから所有者が文句を言われる
という現象が起きます。

ちなみに私は収集癖のようなものがあり、かつうるさいほどの“綺麗好き”で、自分で何かを損傷しようものなら本気で落ち込み、誰かに破損されると怒らないまでもいい気はしない、猫の額よりも心の狭い人間なので、過去に何度か友人に物を貸したものの酷い扱いを受けて返ってきて随分と嫌な思いをしてから、自分の心の平穏を守る為に基本的に人に物は貸さないようになりました。(伴侶様は除きます。彼は私に色々と貸してくれるし、同じ考え方の人間なので、お互いにお互いのものは自分のものと同じに考え扱うので、傷つけられて返ってくることがないのを経験上知っているから、というのもあります。)

自分の器が驚くほど小さいのは自分でもいかがなものかと思いますが、そうそう簡単に変えられるものではないし、自分が貸さない代わりに自分も人から物を借りることはしないので、最低限のルールは守っていると思い、そのようなスタンスを取って早10年以上になります。

私は基本的に
目には目を、歯には歯を
give and take
因果応報
だと考えているので、誰かにいい事をしたい、誰かにいい事をしてもらったら自分もそれに報いなければいけない、とは思っていますが
思っていてもできる場合とできない場合はあります。

私は基本的に所持品が少ない人間なので人に貸してと言われるほども物がないのですが (この新しい家に引っ越してきてから、随分とたくさんの家具を所持するようにはなりましたが、自分の机と椅子と一つの敷物以外は全て伴侶様と折半して購入しているので、所持できているものはそのものの半分しかありません。万一別れる時が来たら、大変そうです。苦笑)、伴侶様は所持品が多く、主に彼の兄弟姉妹から所持品を貸してくれ、と言われていることが多くあります。
上にも述べたように彼は自分の所持品に関して私と殆ど同じような考え方なので、あまり人に貸したくないようです。 (過去に何度か貸して可哀想な状態で返却されたり、ひどい時には紛失や故障した状態で返却されているのを見ているので、尚のこと貸したくないという気持ちは分かります。)
ただ、彼も少し違うのは、殆ど同じような考え方でも、それでも
『まあ、文句を言われても理解はできる』と言えることです。

私だったら、たとえ貸さないにしても『何で所有者の私が借りたいと言うあんたに文句を言われなきゃならんのだ』と思いそうです。と言うか思います。
自慢じゃないですが私はアイスランドではかなり最低限に近い額のお給料しかもらえていないし、彼彼女たちが私より裕福なのを知っているので、
無ければ借りると言う考え方をそもそもしない私からすれば欲しいなら買えよ、と思うし、例え借りるにしても貸してくれないからといって文句を言うのはおかしいだろう、と思うのですが、そうではない人も、少なくは無いのだな、と感じたのでした。
ただこれに関しては一つ面白いことが分かっていて、ある友人に教えてもらったのですが、彼女が数年滞在していた小さい島国でも、『家族誰か一人の持ち物は、その家族全員の持ち物』かのような考え方があるのだそうです。
小さい島国ということは、家族やそれに近い近しい関係の人間で構成された社会と言うことになります。
その国では、貸してと言われて貸さないということは殆どないそうです。
ここからは想像でしかありませんが、貸さない、もしくは貸せないときもあるかと思います。でもきっとそういう時はこのアイスランドの家族間のように『貸してもらえなかった人が文句を言うのでは』と言うのは、想像に難くない気がします。

何度も言いますが、自分の心の狭さは本当に酷いものだと自負はしております。
しかしアイスランドの人々はこんなにも寛容なのか、と驚くことが身近で連続して起きて
なんだかとても不思議な気持ちになりました。

納得はできない、自分はそれに賛同はできない、もしくは自分も同じような行動や考え方ができなくても、
この人は、この人たちは、こういう考え方なんだ
と知ったり、理解したりすることは外国で生きていく上で結構重要なことであるような気がします。
違うと認識すること、違うことを受け入れることは、外国人がその国で生活させてもらうのに、最低限必要なことだと私は思うのです。
ちなみに受け入れるので、無論違うからと言って怒ることもできません。してはいけない、とは言いませんが、するべきではないだろうな、とも考えています。

ところ変われば常識も変わる。
人が変われば考え方も変わる。

アイスランド人だから、日本人だから、と言うものでも無いように思います。
本当に十人十色で、人それぞれ、いくら似ていても全てに全く同じ考え方をする人間などいるはずがありません。
ただ、その違いを知っていたり、受け入れられたりすると、人と人との関係はもっと上手くいくのじゃないのかな、と思うことが多々あります。

理解するのが難しいことも、不快感を示さずに受け入れるのが難しいことも勿論たくさんありますが。
少しずつでも、色々な人やことや考え方をに本当に受け入れられるような人間になりたいな、と思う牛でした。

今度は楽しい記事を書きます。
失礼致しました。

では、おやすみなさい!
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テーマ:アイスランド
ジャンル:海外情報

コメント:

No title

わたしもデンマークに住んでいて、そういう従来わたしがもっていた価値観とは異なるものを受け入れなければならない、もしくは認めなければならない、局面をたくさん経験してきました。
例えば、わたしも「因果応報」の考え方をしていましたが、ここではキリスト教の影響が大きいのか、「赦す」ことがとても大事なことになってますよね。
これに関しては、なかなか難しいことなんですが、自分の「復讐心」が自分をも苦しめていることを知り、「赦す」ことができればいいな、、と思うようになり、今はそれに向けて自分と闘っています。

今でも、デンマークの価値観をすべて受け入れたわけではないし、今も葛藤は生じますが、デンマークに限らず、いろんな国の異なる考え方を、「ああ~、世の中にはいろんな違いがあるんだな~。」と知るようになっただけでも、ラクになったような気がします。
以前はよく怒ってましたけれど、今はだいぶ割り切るようになりましたからね。。

こんな小さな国の、こんな小さな井の中で 生きてる私でも‥考え方や感じ方の違う人たちに出会って しんどくなったり悲しくなったりするのに
牛さんは がんばってるね~o(^-^)o

疲れた時には いつでも帰って来られる家と 包んでくれる海があること 思い出してね \(^-^)/‐hug

>elsさん

コメントありがとうございます!
デンマークでもきっと、文化や考え方の違いでフラストレーションが溜まってしまったり、なんだかなあ、と思われる機会が尾アリだと思います…。お疲れ様でございますm(__)m
アイスランドには歴史的にやはり、デンマークから影響を受けたものが多いのですが、アイスランド人の考え方がデンマークに影響を受けているものはあるのかなあ?と少し気になりました。

『赦す』ことって結構大変そうだなと思うのですが、elsさんの仰られるとおり、赦せることで自分を苦しめずに済むこともあるのだと気づいた時に、なかなか難しそうだけれど見習いたい部分もあるな、と思いました。頑固で心が狭いという『赦し』には程遠そうな性格なので、いつかそれが実現するのかどうかも分かりませんが、心がけるだけでも違うはずだと自分に言い聞かせております(苦笑)

家族・友人間の考え方の違いでフラストレーションが溜まることもあれば、仕事でやり場のないモヤモヤに苛まれる時もあって…。日本でもきっとあるのでしょうが、文化や考え方の違いで起きるフラストレーションは、やはり外国で生活しているこそ起きやすいのかな、と思ったりします。

『どうしてそう考えるんだ!!!(怒)』じゃなくて、『まあ、この人たちはそういう考え方なんだ。違うだけ、違うだけ。』と自分に言い聞かせられるようになって、私も以前よりは少し心の平穏を長く保てるようになりました。
それでも、『なんでやねーーーーーん!!!!』と心の中で叫ぶことはあるのですが、それも『よし、これは異文化交流だ、楽しもう。(笑)』と思える、ちょっとした余裕も出てきました。
きっとこの先もたくさん『なんでやねーん!モヤモヤするー!』と思うことは尽きないのかなと思いますが、“異文化”、楽しめるようになりたいと思います^^

>まぁちゃん

いやあ、日本でも、どんなところでも、きっと考え方の違いで『むむむ…!』ってどうしようもなくモヤモヤしたりすることっていっぱいあると思うよ。
時々無性に腹が立つけど、時々『いや、これは国が違うからだ、仕方ない。』って無理やりにでも自分に言い聞かせられる理由があるってある意味マシかもな、って思うことがあるよ。(笑)

こっちに住む年数を重ねるほど、まぁちゃんの優しさと支えに益々感謝が募ります。ありがとうm(__)m
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